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藤次郎は、正当防衛に藉口《しゃこう》して要之助を殺そうとするのだ。要之助がこれ迄、夢遊病の発作に襲われた事は多くの人々が知っている所である。現にN亭に於ける要之助の部屋(即ち藤次郎要之助の寝室)には危険な物は一さいおいてはない。而も、来てから半年しかならない間に彼は、屡々夢中遊行をしている。其の中一回は現に彼が見ている。 だから其の夜、仮りに要之助が発作に襲われたとしても決して不思議はない。そうして夢中で傍にねている藤次郎に斬ってかかったとしても必ずしもそれはあり得ないことではない。 ただ従来、斬ってかかるような物がおいてない。それ故、藤次郎は一振の短刀を求めたのである。 料理場においてある庖丁のような物はいつも見なれているから恐らく要之助に深い印象を与えまい。それ故、藤次郎はわざわざ短刀を買った。而《そ》して要之助にはっきりと印象を与える為に度々見せたり持たせたりした。 更に、その夜、発作をおこす近因として殺伐な映画を十分に見せた。要之助は非常な熱心さを以て之を見た。 医者でない藤次郎には之以上の手段は思い付かなかった。そうして之で十分だと信じたのである。 彼が何故に短刀を求めたかという理由は、一応要之助に説明がしてある。もとより出鱈目である。国の友人なるものを調べられればすぐばれる嘘である。然し彼は其の嘘を要之助一人にしか語ってない。要之助が殺されてしまえば、彼は調べられる時、何とでも外に出たらめの理由を云えば好いわけである。而して文鎮を求めた理由もそれと同様なのだ。 二人が映画館で剣劇を見た事を立証する為に彼は二枚のプロを大切に持って帰って来た。而して彼等がたしかに其の夜映画館に居たことを出来るだけはっきり証拠立てる為に彼は数本の剣劇映画の場面とストーリーを十分におぼえて来た。更に、どの映画が何時に始まったか、どれが何時に終ったかという事まで時計を見て調べて来た。此の最後の小細工は実は甚だ拙劣である事を読者は直ちに理解せられるだろう。 彼はねる時、わざと短刀を傍の戸棚に入れて戸を開け放しておくつもりである。勿論之は要之助に十分見ていられなければならぬ。 深夜、恐らくは二時頃、彼は起きる。そうして、短刀を取り出す。次に自ら咽喉の辺を軽く二ケ所程切る。それから柄の所をすっかり拭いて、(之は勿論自分が最後の使用者なる事を見破られぬ為である)側にねて居る要之助の右手に握らせる。藤次郎は要之助が左利でない事を知っている。之は全然眠っている所をやらないで、ゆすぶりおこして要之助がねぼけまなこでいる時の方が却ってうまく行くであろう。 そうして要之助が握ったとき、機を失わず鉄の文鎮で一撃にそのみけん[#「みけん」に傍点]を割るのだ。 勝負は一瞬の間だ。要之助は直ちに死ぬにきまっている。つづいて彼はいかにも争っているような悲鳴をあげる。要之助の死体の位置を適宜《てきぎ》の所におく。斯くて彼は完全に殺人を行う事が出来、所罰《しょばつ》を免るるを得るのだ。 彼の申立は頗《すこぶ》る簡単に行く筈である。彼は係官に対し次の如くいうつもりである。 「私ハ夜中ニ何ダカ咽喉ニ冷《ひや》リトシタモノヲ感ジマシタ。ツヅイテ刺スヨウナ痛ミヲオボエマシタノデハット思ッテ目ヲ開クト要之助ガ悪鬼ノヨウナ相《そう》ヲシテ白イ光ルモノヲモッテ私ニ馬乗リニナッテイマス。部屋ニハ電気ガツイテ居マスカラハッキリワカリマス。私ハ次ノ瞬間ニ殺サレルト思イマシタ。身体ハ押エラレテ動ケマセヌ。勿論逃ゲルヒマハアリマセヌ。思ワズ右手ヲノバスト手ニ何カ堅イ物ガサワッタノデ夢中デ要之助ノ顔ヲナグリツケマスト彼ハ『アッ』ト云ッテ倒レマシタ。私ハソレデ直グ人々ヲ呼ンダノデアリマス」 検事が果してこの言を信じるだろうか、無論信じないわけはない。あとは主人其の他が要之助の平素に就いて述べてくれるであろう。 実に素ばらしい企てである、と藤次郎は考えた。そうして思わず微笑した。 愈々《いよいよ》寝《しん》につく時が来た。藤次郎は予定通り短刀を要之助の目の前で戸棚にしまった。あとはもうねるばかりである。 要之助は美しい横顔を見せてすぐに眠りにおちたらしい。藤次郎はつくづくと其の顔に見入った。自然が男性の肉体に与えた美しい巧みである。然し藤次郎には同性の美しさに好意をもつことは断じて出来なかった。彼は今更、要之助の顔を呪った。 十二時半になり一時頃になった。時は正に真夜半《まよなか》頃になろうとしている。然しまだ何となくあたりが落ち付かぬようだ。 藤次郎は、健康な肉体が必然に伴って来る烈しい睡魔と戦わねばならなかった。 彼ははじめ余りに緊張したせいか、二時頃に至ってますます甚しくつかれはじめた。 藤次郎はいつともなしにとろとろしかかった。 と、彼は不思議な夢に襲われはじめた。 要之助がいつの間にか立っている。見るとその片手にはきらりと閃く物を持っている。あっと思う間に、要之助が、彼の側によって来た。次の瞬間に要之助の顔が、映画の大写しのように彼の顔の前に迫った。 とたんに彼は咽喉の所にひやりと冷い物がふれたと感じた。彼は叫ぼうとした。夢ではない!とぴりっとした刹那、たとえようのない焼けるような痛みを咽喉のまわりに感じると同時に、藤次郎の意識は永遠に失われてしまったのである。
藉口《しゃこう》 ある事にかこつけて言いわけをすること。口実にすること。