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長編小説の勉強1●菊池寛「真珠夫人」2
二
湯の宿の欄干に身を靠《もた》せて、自分を待ちあぐんでゐる愛妻の面影が、汽車の車輪の廻転に連れて消えたりかつ浮かんだりした。それほど、信一郎は新しく婚した静子に、心も身も与へてゐたのである。 つい三月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考へても、上京の途すがら奈良や京都に足を止めた蜜月旅行らしい幾日かの事を考へても、彼は静子を獲たことが、どんなに幸福を意味してゐるかをしみじみと悟ることが出来た。 結婚の式場で示した彼女の、処女らしい羞しさと、浄らかさ、それに続いた同棲生活に於て、自分に投げて来た全身的な信頼、日が経つに連れて、埋もれてゐた宝玉のやうに、だんだん現はれて来る彼女のいろいろな美質、さうしたことを、取とめもなく考へてゐると、信一郎は一刻も早く、目的地に着いて初々しい静子の透き通るやうなくゝり顎の辺《あたり》を、軽く撫《パット》してやりたくて、仕様がなくなつて来た。 『僅か一週間、離れてゐると、もうそんなに逢ひたくて、堪らないのか。』と自分自身心の中で、さう反問すると、信一郎は駄々つ子か何かのやうに、じれ切つてゐる自分が気恥しくないこともなかつた。 が、新婚後、まだ幾日にもならない信一郎に取つては、僅《わずか》一週間ばかりの短い月日が、どんなにか長く、三月も四月もに相当するやうに思はれた事だらう。静子が、急性肺炎の病後のために、医者から温泉行を、勧められた時にも、信一郎は自分の手許から、妻を半日でも一日でも、手放して置くことが、不安な淋しい事のやうに思はれて、仕方がなかつた。それかと云つて、結婚のため、半月以上も、勤先を欠勤してゐる彼には休暇を貰ふ口実などは、何も残つてゐなかつた。彼は止むなく先週の日曜日に妻と女中とを、湯河原へ伴ふと、直ぐその日に東京へ帰つて来たのである。 今朝着いた手紙から見ると、もうスツカリ好くなつてゐるに違ひない。明日の日曜に、自分と一緒に帰つてもいゝと、云ひ出すかも知れない。軽便鉄道の駅までは、迎へに来てゐるかも知れない。いや、静子は、そんなことに気の利く女ぢやない。あれは、おとなしく慎しく待つてゐる女だ。屹度、あの湯の新築の二階の欄干にもたれて、藤木川に懸つてゐる木橋をぢつと見詰めてゐるに違ひない。そして、馬車や自動車が、あの橋板をとゞろかす毎に、静子も自分が来たのではないかと、彼女の小さい胸を轟かしてゐるに違ひない。 信一郎の、かうした愛妻を中心とした、いろいろな想像は、重く垂下がつた夕方の雲を劈《つんざ》くやうな、鋭い汽笛の声で破られた。窓から首を出して見ると、一帯の松林の樹の間から、国府津に特有な、あの凄味を帯びた真蒼な海が、暮れ方の光を暗く照り返してゐた。 秋の末か何かのやうに、見渡すかぎり、陸や海は、蕭条たる色を帯びてゐた。が、信一郎は国府津だと知ると、蘇つたやうに、座席を蹴つて立ち上つた。
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